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Oct 22, 2020

関ヶ原町は文字通りの過疎の町だけど

『限界集落』と言う言葉を耳にするようになってかなりの年月が経ちますが、昨日のコラムで書いたように、関ヶ原町は日本全国に名前は轟いていますが、実際には昨日の報道でもあったようにスーパーマーケットすらない町なのです。今はこのコロナ禍で東京への出張はないのですが、以前には「岐阜県はどちらからですか。」と聞かれて「関ヶ原です。」と答えると大抵の方から「関ヶ原市ですか」と言われて「本当は7千弱の人口なので市ではないんだけど。」と恥ずかしさを覚えてしまいます。この現象は『関ヶ原合戦があった町』と言う歴史的有効性を関ヶ原町の先達が蔑ろにしてきた証し。歴史上の結果に対して『もしも、この様な展開をしていたら』と今の現象を嘆いてみても過去に戻れる訳でなし、67年も住み続けている私自身も批判する資格はないと思っています。私自身大学時代にサークル活動の一つに『郷土研究の会』(柳田民俗学)に所属している時に大学の理工学部との合同研究としてその当時の文化庁から予算をつけて貰い(サークルの顧問の先生が文化庁の偉い方だった関係で)旧中仙道の宿場町の一つであった『妻籠宿』を一大観光地にするための調査研究をして、その当時(47年位前)民宿は一人の女性(かなりご高齢だと思いましたが)が細々としている所が一軒しかなかったのに今ではそこそこの観光地にする為の手助けをした記憶があるのですが、生まれ育った関ヶ原町、特に『今須』について何もしてこなかった事について悔いても仕方がないのですが悔いてます。だって、かなり前に読んだ本に(どんな本だったかはわかりません)よると、旧中仙道の岐阜エリアに宿場町が13宿あって、江戸時代の人口では加納宿(城下町のふもと)に次いで多かったのは今須宿だったと書いてありました。と言う事は私が住んでいる『今須町筋』と言われる所は本陣があり脇本陣もあり宿屋も多くあり、籠屋も多くあった豊かな土地柄だったと思います。日本で線路が引かれたのは『新橋~横浜』『京都~神戸』で3番目が『関ヶ原~長浜』だったと父進が監修責任者をした『不破の歩み』に書いてあり、計画の段階では『関ヶ原』の次の駅は『今須』の計画が持ち上がった時にその当時の有力者が「駅等出来たら若い者が出て行ってしまうから駄目だ。」と言って反対して出来なかったと聞いてます。その当時反対した有力者の方が今の現状を知ったら切腹もんだと思います。何が言いたいかと言うと何事も先を見た展開をしていかないとどんな立派な町も衰退してしまう。今の日本も衰退する為に汗をかいたように思います。それは、『少子化政策を推進』し『バブル経済を煽った』歴史があるからです。リピーターの皆さん、気が付いた事を意見して将来がより良くなるように頑張りませんか。(こんなデカイ課題を書いて大丈夫か・・・。)