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Apr 15, 2021

つくづく走りながらの人生だと思いました

今朝も5時過ぎからウォーキングマシンで歩き、尚且つお経を唱えながら、私の生きざまを振り替えっていました。何度もこのコラムで書いていますが、私は母秋江さんの後ろに隠れながら『そっと』回りを見て動いているような生き方で、母秋江さんは私が中1で他界してからは姉光子さんの守護の元生きていたのに、その姉光子さんは私が高2の4月7日にこれまた他界し(急逝と言う表現の方が正しいかも知れません。)凧の糸が切れたような生活を許してくれたのがその当時学校長をしていた父進さんでしたが。当時の私は父の対応に対して感謝の気持ちを一片も持てないような何ともならない高校生でした。(多分、心の奥底ではわかっていたと思うのですが・・・。)間違いなく私の人生を大きく変えたのは四国巡礼の歩き団参だったと思います。但し、その頃の私は「困っている方がいらっしゃったら何とかしてさしあげたい。」と言う単純な思いでの行為だったと思います。つまり、『自分の出来る範囲内で』と言う事でした。しかしながら、教員になり担任をさせて頂いた子ども達に「楽しい事を一緒にやりたい」と言う事で頑張ってやればやるほど、その当時の教育現場では受け入れられなくて(多分今も駄目だと思います。)潔く辞職して、自分探しの結果、(と言うよりその選択しかなかったのですが)児童養護施設(当時は養護施設と言ってました。)の指導員になり13年間、施設の子ども達の親代わりとして、「この子はこんな風に育って欲しい。」と考えた事を実践してきました。しかしながら、その実践は狭い範囲のもので、35歳の時に資生堂福祉財団でのアメリカ研修に参加させて頂き、「もっと広い視野での展開をしたい。」との思いで退職を決意したものの直ぐには退職することが出来ず38歳で退職しました。しかしながら、退職してみたものの、家族を養える程の収入基盤もない事がわかり、途方に暮れながら、大学の非常勤講師や家庭教師での収入では若山家の生活が出来ないことに気が付いても『時、既に遅し』。とにかく、自分が出来る事を精一杯に全力でうごめくしかない。それが、例え報酬を得られないものであっても。この実践は、中1の時に他界した母秋江の遺言である『蒔かん種は生えない』を文字通り実践してきたと言う事か。母秋江さんに見守られているお陰なのか一生懸命の中、良い方向を見出だす事が出来る。38歳で退職し6年かかって社会福祉法人の認可を頂き本館施設が設立した時も『無鉄砲この上ない。』のに、色々な方のご支援ご協力を得て出来ました。今回の盲養護老人ホームの計画も客観的には無茶な計画で走りながらの展開ですが、きっとリピーターの方々も私の熱い思いは理解して頂けるものと願っています。よーく考えてみると私の生き方は走りながら対応すると共に夢を食べて生きているバクーのようですが、ご理解とご協力を宜しくお願い致します。