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Mar 25, 2022

またまた『週刊現代』情報です。

令和4年3月25日

『跡を濁さない「死に方」は選べる』、『医師が教える「上手な最期」の迎え方』、『必読 人はこうやって死んでゆく』とのタイトルが並び小見出しには『チューブだらけの最後』、『赤ん坊に戻ってゆくだけ』、『どうしたら開き直れるか』、「目をそらさず考える」とあり、太い字で『死は誰にでも平等にやってくるが、一度しか経験できない。そのため、多くの人が納得のいく形で亡くなることが出来ていない。「下手な死」を避け、「上手な最期」を迎えるためには何が必要なのか。』とありました。その時私自身の経験(私自身の死んだ経験ではありませんよ)先ずは生母秋江さんは私が中学1年の時ですが母秋江さんは癌が転移しては重症化して入退院を繰り返していましたが、最後は自宅で家族を含めて大勢の身内に見送られて他界しました。この様になったのは父進さんの強い思いを今は感じる事が出来ます。

と言うのはその当時の父は既に学校長を3年経験して次は地元の中心校の校長にもなれる状況であったにも関わらず「妻秋江の最後は自宅でしっかりみたい。その為には学校長をしていては休みの調整が出来にくい。」と言う事でその当時の西濃教育事務所への転勤を希望したと聞いています。その当時(55年前)の母秋江は骨癌の末期で今で言う『緩和ケア』を望み、関ケ原病院もその体制をとって頂けたと言いう事で痛みを緩和するための『モルヒネ』で殆ど錯乱していたと思うのですが(既にコラムで書いていますが)最後は静かに安らかに息を引き取ったと思っています。父進さんは私が38歳でフリーランス(大学等の非常勤や家庭教師をしていました。)だった時の6月22日の朝、真っすぐ歩いているつもりが、しっかり歩けなくて「これは、何らかの異常の前兆だ。」と思い関ケ原病院に受診して即入院になりました。その頃の私は、稼ぎは少ないけど忙しい生活をしてたので、病院に様子を見に行く事があっても『看病する』時間などなくて、唯一病院で泊まったのが8月11日で、他界したのが12日の早朝。つまり、私が生まれて初めて看病の為に泊った日に他界したと言う事。

でも、家に連れて帰り昼間は葬儀の準備でばたばたでしたが夜は父進の隣で父の『ほっ』とした顔を見ながら寝る事が出来たのは幸せでした。週刊現代の記事の中で私が言いたいことがかいてあったので書きます。『下手な死を避け、肉体的にも精神的にも苦痛の少ない上手な最期を迎えるにはどうすればいいのだろうか。余計な苦痛を感じずに亡くなるんは、死期を迎えた時にはもう何もしない事です。その為には病院では家で亡くなることが一番の方法です。病院に行けば命が助かると言うのは、幻想にすぎません。死の間際の点滴は血液を薄め、内臓に負担をかけるだけで、酸素マスクもただ呼吸の邪魔をするだけ。穏やかな最期を迎えるには、いかに医療から離れるかが重要になるのです。』との記述を見た時に『我が意を得たり』と思いました。つまり、私が提唱している『枯れる様に』『枯葉がちょっとの風で落ちる様に』・・・。

う~ん。リピーターの皆さん本日のコラムの意が通じたか自信がありませんが、19時からの1時間の本部施設での全体会の後にまとめをしたので、締まりのないものをお詫びして明日には名誉挽回と考えていますので懲りづにこのコラムを読んで下さい。お願いしま~~す。