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Feb 10, 2021

今、私が頑張れるのは・・・『①』

令和3年2月10日

生まれつき虚弱だった私が今も元気に飛び回っていられるのは、当然ながら父進さん母秋江さんの愛情たっぷりのお陰ですし、その他にも私にとってラッキーな事があったお陰だと思っていますが、体力的にもラッキーがあったように、精神を鍛えるラッキーも一杯あったので、その事について、スポット的に且つ断続的に書いていく今回が第1回と言う事で書かせて頂きます。(かつてのコラムでも書いた事も出てくるかと思いますがご容赦下さい。)

大学を卒業し(5年かかりましたが)父の計らいで教員になった私が神戸北小学校4年3組を担任させて貰っていた6月に校内研修授業で最悪な授業(自分で言うのですから間違いないです。)をして、当時の若原校長先生以下全員の先生から酷評され、しばらくの間は立ち直れない状況だったのですが、「私自身、教員の仕事を安易に考えていた。」と総括して、「板書が上手く出来ないのであれば事前にビー紙にマジックで書いて授業に臨めば少しは余裕のあるものになるのでは。」とか、「事前に子ども達が質問しやすい問いかけを仕込む」とか「授業のイメージを考えて挑む」と言う事を考えて挑むことにしました。

その後は当たり前の事ですが『一生懸命に頑張りました。』そして、10月に当時の西濃教育事務所の教育指導の先生に授業を見て頂く機会を得た時には自分として合格点をつけるまでに成長させて頂きました。しかしながら、「自分のスタンスでは他の先生方にも迷惑をかけてしまう。」との結論に至りその年度の終了である3月31日で退職しました。(多分その頃の私はひ弱で神経質な人間だったと思います。)そんな私を覚醒させてくれたのは退職して旧徳山村で半年のモラトリアムのような時間を頂いた後、児童養護施設に入職して、厳しい指導をして下さる経営者に恵まれ(その時はそのようには思っていませんでしたが・・・。)色々な経験を積ませて頂き育てて頂いたと思っています。

但し、今考えてみるに、色んな経験をしないできた分、大変な事なのに「そんなもんかな」と考えてやってしまう事が出来たのが良かったのではないか」と思っています。回りくどい言い方をしましたが「何も知らないボンボンだったから『厳しい事』と言う認識を持たずにやり切れたのではないかと思います。児童養護施設での13年間(26歳から38歳)は「この子を良い方向に持って行くにはどうしたら良いのか」を考えてがむしゃらに展開していった事は結局私の精神状態の幅を大きくする結果になったとも思います。リピーターの皆さん。具体的な出会いについては次回以降に頑張って書きますので私の稀有な生き方お付き合いにお付き合い下さい。