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Sep 15, 2021

奇跡への感謝(それにしてもいっぱいあります。いやいや、進行形です。)

何度もコラムで書いていることですが、今朝4時に目覚めて、「少し早すぎるな」と思い寝床の中で「さてさて本日の予定は。」と確認した後「本日のコラムで何を書こうか」と考えていると走馬灯のように今までの私の過激な出来事が浮かんできて私は思わず改めて「全てに感謝だな」と思ったので感謝を込めて改めて書く事にします。

先ずは生後半年が経過した時に心臓が5分程度停まり、それ以降の私は病気と背中合わせの毎日だったとの事ですが(我が家の縁の下には酸素ボンベが置いてあった。)それでも今の私が存在するのは我が家から200メートルも離れてない所に診療所があり本多先生と言う女医さんが常駐されていたので何かあると駆け付けて下さって適切な対応ををして下さった事です。ただし、ここにも伏線があります。と言うのは私の母親秋江さんは今須の生え抜きのしかも私にとっての祖父である春吉じい様は今須では珍しいその当時の相場師でのうるさい存在で、母親秋江は私が生きる為なら何でもするぞと言う方がだったので、本多先生からも特に大切にして頂けたからこそのいまなのであります。色んな偶然が私を生かして貰えたのだと思います。

何とか小学校に入学して1年から3年まで担任の先生だった塚原先生は『塚原ぼくでん』と揶揄されるくらいに厳しい先生だったのですが私は何故か塚原先生に可愛がられていて、その当時は日直と言うのがあり、私は母親秋江さんに食べきれない程の食べるものを作って貰って学校にいて、大した事をするわけでは無いのに塚原先生の側でニコニコとしていたとの事でした。私にとってアマアマの塚原先生がいたから勉強はできなかったと思うのですが、小学校3年間を過ごせたのだと思います。塚原先生には、私が今須の地に本部施設を建てて間なしの頃、塚原先生の住まいがあった近江長岡に講演のお招きがあり行かせて頂いた時に杖をついてわざわざ講演を聞きにきて下さり「ガリガリで青白い顔だったひろっさんが立派になって嬉しかったよ」と言って下さった時には「頑張ってきて良かった」と素直に思ったものです。体が弱かった私を姉光子さんと春子さんがカバーしてくれたからかそ曲がりなりにも学校に行けたんだと思います。

高校2年で荒んだ気持ちを押さえきれずにいたときも、私の不始末を父親進さんがしてくれたから高校を中退せずに済んだのだし、大学時代に横着をして、教授会で退学寸前のところを助けて下さった学長より実権を持っていた旧文部官僚の先生の存在もあったし。教員を辞めて方向性が定まっていない私を児童養護施設の指導員として紹介して下さったその当時中学校の校長先生の存在もあるし、大学時代にあと一時間遅かったら腸閉塞で死んでいたかも知れない事もあったし。とにかく、「あのとき」と思える場面がいっぱいあります。やっぱり、今生きている事に感謝です。リピーターの皆さんも私が生きているのは奇跡だと思いませんか。