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Jun 26, 2022

昨日は養母英子さんの7回忌法要を勤めました

令和4年6月26日

本日が正式には命日なのですが、集まるのが土曜日の方が良いと言う事で昨日勤めました。正式には本日なので本日は養母英子(ひでこ)さんの事を語ります。

私にとって養母英子さんは、私が大学生活を謳歌している時に「父親を一人にしておくのは申し訳ない。」との思いで姉春子さんの提案で父親に子ども二人から再婚を進める形で我が家に来て貰ったのです。その当時養母英子さんは私と2回り違うので43歳でした。(ちなみに父親である進さんは60歳なので17歳離れていたのです。)

大学時代の私は今の家に帰るのは良くて月に1回程度。正直生活費を貰いに行くのとガソリンを満タンにして家にあるもので使えそうな物を車に積む為に帰って来るような若者(バカ者とも言います。)ただし、我が家に来ていただいた日から「おかあさん」と言ってましたし、我が家にあるものについての説明と我が家の味付けについては私が責任を持って教えました。と言うより、私のわがままな味付けを通しただけなのですが。(基本的に砂糖は入れません。)

父進さんも英子さんも車の免許を持っていなかったので、たくさんの買い物をするときは(その頃は近くに八百屋さんがありました。)私が車を出して英子さんを買い物に連れて行きました。(50年前の時代なのに私は車の免許を頂いた日が車を買って貰った日なのであります。)近所の口うるさいオバサン連中からは「仲が良すぎる。」等と言われていたようですが・・・。「仲が良くて何が悪いの。悔しかったら息子に連れて行って貰えば良いだけでしょ。」と思っていました。

私が養母英子さんに対して出来たのは毎年5月第2日曜日の『母の日』と養母英子さんの12月18日の『誕生日』は欠かさずしていたと思います。私が養母英子を我が家に来ていただいて、本当の意味で母として受け入れたのは、私が大学3年4月の時に腸閉塞で執刀医の先生から手術が終了して体調が落ち着いた時に「あと数時間手術が遅かったら助からなかった。」と言われた時に病室で付き添ってくれた時だったと思います。前にもこのコラムに書いたように思いますが、手術が終了して3日後に全身痙攣を起こして何ともならなくて、多分、安定剤の注射だと思うのですが注射を打たれて意識が薄れていき何時間後かは定かで無いのですが、眠りから覚めた時に心配そうに私を見つめていてくれて(けしからん事に英子さん以外はいなかったのであります。)私が気が付いたのがわかったんだと思うのですが涙を一杯目にためながら「良かった良かった。」と言ってくれたときは「これで、本当の母代わりになってくれた。」と正直思いました。

母秋江さんとは僅か13年の月日。しかしながらめちゃくちゃ中身の多いものでしたが、養母英子さんとは実に44年の長きに渡るご縁を頂いたのですが、まじで喧嘩した事もありますし、「こんな親ならいない方が良かった。」と思うこともありましたが、今となっては、私の中で大きな存在であった事は間違いありません。

リピーターの皆さん。「今日が英子さんの命日だ。」考えながら4時21分の目覚めと共に行動開始して昨日と同じ様に(半ば期待をしていたのですが)2つ目のトンネルで本堂の入り口の戸が開いているのに気が付き歩きに加速して幅広の6段の階段も軽やかに歩き、先ずは金剛杖とペットボトルを置いてから期待を込めて用意した千円札を賽銭箱に入れてから護摩木2本にそれぞれ『諸障退散』『七難消滅』と書くと共に『若山宏』と書き、前回書かせて頂いた『心願成就』の隣に積まさせて頂きました。尚、本日も2本の線香が点けてあった事に感謝です。