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Jun 6, 2020

昨日も触れた高田好胤師の言葉について再考します

大谷徹奘師の師匠の高田好胤師の『苦労と仲よくすれば  きっと  苦労が味方して  助けてくれます』の言葉を改めて私自身の人生に基づいて語る事にします。

(このコラムのコーナーで何度も触れていることですが)私は小さい頃は対人恐怖症で赤面症だった事もあり、自分がやりたい事があっても『始めの一歩』が出なくて、誰かが私がしたかった事をやり始めてうじうじとしている事ばかりで、『宏君は何も出来ない』的な子だったと思います。だから話をしたりする場面では『ぼそぼそ』とした話し方だった為に声がこもってしまい、「何を話ているのかわからない」とよく言われて、ますます萎縮した毎日だったと記憶してます。

つまり、『苦労と仲よく』する事を頑なに拒否していた毎日だったと思います。だって『出会い』があってもその出会いを拒む日常だったので『苦労』は全て避けていたと言う事だと思います。そのような生活はまるで庭球ボールを手でグーっと握ったような毎日。そのままの生活が仮に今も続いていたら、今のような状況には百パーセントなっていなかったと思います。

私は中学時代に殆ど受験勉強を一生懸命に努力した記憶がありません。(自慢して言う事ではありませんが)ある日のエピソードを書きます。私が高校2年4月7日に急逝した姉光子さんが、私が中学3年で珍しく2階の自室で勉強していると気を利かせて飲み物とおやつを持ってきてくれた時に私はよだれを滴ながら爆睡していて、姉光子さんの気配を感じて『やばい』と思い、姉光子さんに何かを言わなければとその時思ったんだと思います。だけれども、動揺と寝惚けの中で『意味不明』な事を言ったんだと思います。姉光子さんは「宏、眠いのならお菓子を食べて寝なさい」と優しく声をかけてくれたのを今でも覚えています。(もーーしも、この場面でその当時の春子さんだったら・・・。)結局中学時代には『努力』と言う生活とは無縁ですから、ましてや『苦労』等は笑止千万。だから、公立高校への進学は叶わず(私の時代は優秀な子は公立に進学したので。今とは状況が変わっています。)大垣日大高校一本での高校入学でした。しかしながら、この進学が私にとっては幸運を産んでくれたのです。

と言うのはその当時の大垣日大高校は私が7期生と言うまだまだ校風が固まっていない状況で自由快活な活動が許されていたと思います。1期生が卒業して先生になって教壇に立たれた時が私が3年生の時。私もその頃は自分の気持ちをガンガン表せて・・・。勿論新しい事、誰もがやらなかたた事を行動に移すにはかなりのエネルギーが入りますし、軋轢もありました。しかしながら軋轢が大きければ大きい程に使命感とやり遂げた時の達成感を身を持って味わう事が出来ました。だから、かっこ良く言ってしまうと『苦労』だとは思わず「遮二無二前進あるのみ』だったように思います。

今は私の過去の話をしたりすると「理事長さんは大変なご苦労をされたんですね」と言われる事が多くありますが、私自身は、問題解決に一生懸命で、やっている事を『大変』だとか『苦労』だとか思った事はありません。だから『苦労と仲良く』とは少し意味合いが違うかもしれませんが・・・。確かに胃に穴が開くのではないかと思うような事やお先真っ暗で布団の中から出れないような事はありましたが良い意味での『喉元過ぎれば』は一杯経験したはずですが、有り難い事に今は上手く行った記憶しかありません。

リピーターの皆さん幸福者の私にエールをお願いします。