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May 7, 2024

柴田家のお墓で手を合わせていて

いつもの様に5時15分に起きて仏間でのお参りを終えて幸福地蔵様、妙応寺の本堂、今須稲荷、三仏様、六地蔵様等にお参りして、6家のお墓に手を合わせて行くのですが、お墓の最後が柴田家なのですが、お墓の主である『伯父さん』(と言うより学校の先生をされていたので『柴田先生』と言っていました。)『叔母さん』(と言うより『おばちゃん』と言っていました。地域の方々からは『かずちゃん』と親しみを込めて呼ばれていました。)についてですが・・。

正直『伯父さん』との思い出はそれほどなく、私が38歳の時に父進が他界した時のお葬式では「進先生には大変お世話になったので」と言うことで親身になってお世話して頂いたくらいしかないのです。

しかし『おばちゃん』とのエピソードは一杯あって走馬灯の様に頭に浮かんできましたので、リピーターの皆さん、私とおばちゃんの思い出話に本日は付き合って下さい。

私とおばちゃんの話をするときのキーワードは生みの親である母秋江さんとの関係から話をしなければなりません。母秋江さんは前にも書きましたが『今須のじゃじゃ馬娘』で、その母を一番慕って見えたのが『和ちゃん』だったのです。

と言うことで一つ目の強烈なお話は、私が小学校に入学して間もなくの遠足の時に秋江さんの私への思い「宏が途中で歩けなくなってはいけない」と言うことで本隊が歩く後からリヤカー(60年以上前の事ですから)で付いてきた時に母秋江さんと一緒にリヤカーを引いていたのが『おばちゃん』なのであります。

母秋江は私が13歳の時に他界して疎遠になってもおかしくないのですが、それ以降も「竹の子を煮たから」とか「山菜を煮たから」と機会あるごとに若山家に持ってきて下さいました。そんな時には必ず「秋ちゃんには本当に良くしてもらったから」と言われていました。

その後、私の父が60歳を前にして、姉春子さんは結婚を、私は大学で下宿生活が始まり「父ちゃん一人の生活は大変だろう」との姉春子さんの提案で父に後妻(英子さん)を迎えてから和おばちゃんが若山家に何かを持って来ることはなくなったのですが、義母英子さんがいないことを見計らうようにして「ひろっちゃんはきゃらぶきの煮たのが好きやったで持って来たよ。」と言って何度か美味しく頂きました。(ちなみに私は少しでも砂糖が入ると食べないことを良くご存じでした。)

和おばちゃんも高齢になられて残念ながら認知症になられ本部施設でお世話をさせて頂いた時には「御恩返しが少しは出来た。」と思って精いっぱい接点を持ったのですが、お会いすると必ず「ひろっちゃん。太ったね」と言われたものです。

多分おばちゃんの中では私は小さい時のままだったのだと思います。リピーターの皆さん私は今コラムを打ちながら涙を一杯貯めています。私はそんな人間なのであります。