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May 6, 2021

父進さんとしっかり話が出来ました。

令和3年5月6日

私が38歳の時に他界したので、約30年前にはこの世には存在していない父進ですが、朝イチでウォーキングマシンに乗り歩きながらお仏壇に向かってお経を唱え本日はずっと父進の写真を見ながら話をしました。話の中身はご寄付を頂いた方と昨日電話で盛り上がった父進さんが垂井小学校の校長だった時の父進さんとの接点の話でした。そして、父進が関ヶ原歴史民俗資料館の館長時代に何処かで会われた時に「関ヶ原歴史民俗資料館に行きます。」と話をしたのに実際には行けなかった事をとても残念に思われている感じで話をされました。

私はその報告をしながら50年前の記憶が鮮明にある事に正直驚いたと父進に話をしました。だってリピーターの皆さん思いませんか。自分が小学校時代の校長先生との思い出を熱く語れますか。この3月末をもって廃校になった今須小中学校にたまに行く事があり、校長室に通された時に歴代校長の写真が掲げられているのを見た時に「この校長先生がおみえになったな。」とか「この校長先生は話が長かったな」程度にしか記憶がないのは私だけですかね。私の記憶力が一般的だとすると、昨日の電話の方は父進さんとの出会いがとても素晴らしいものだったと言う事です。

ある意味私は父進さんに嫉妬すらしてしまいそうです。父進さんはとても人間味のある人格者だったと言わざるを得ません。そんな私は38歳まで父進の掌の中でわがまま一杯の生き方を許して貰えた事に改めて感謝を父進の写真に向かって言う事が出来ました。私が高校2年の夏から四国団さんに行かせて貰った時にも、「家族の代表で参って来なさい。」と26歳まではずっと送り出してくれたのが今に生きているわけだし結論としては父進を越えれないと問答をしながら痛切に感じました。私は父進の期待を常に「これでもか、これでもか」と言うくらいに裏切りながらも、見守ってくれていたのだと今月16日に68歳になる今になって痛感している次第です。

今の私が父進のような対応が出来るようになるにはあと百年はかかるかな。と言う事は絶対に無理だと言う事か。良くよく考えるに私が父進に誉められたのは生涯に一度きり。それは私が児童養護施設のを退職して大垣女子短期大学幼児教育課で講義をするようになった時に、「お父ちゃんも色んな所で講演をしてきたけど大学生を相手に講義をした事はなかったので、それはそれで素晴らしい」と言われた時です。多分その会話は38歳の5月位の事だったと思うのですが、翌月の6月に体調を崩して入院をしてその年の8月12日に他界したのです。

あの時に誉めるような事を言ったので安心して、緊張の糸が切れてしまい一杯いっぱいの生き方にピリオドを打つことになったとすると、誉めて貰えたのが良かったのか悪かったのか。リピーターの皆さんも思いませんか。『親孝行したいと思った時には親はいず』でも、今頑張っている姿を天国でめっちゃ誉めて貰っていると思います。このコラムを息子が見ているのならば言いたい事があります。『親は絶対に抜けません。だって先に生まれているのだから。自分が信じた生き方を全うしなさい。』すみません。個人的な事を最後に書いてしまいました。