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Dec 13, 2020

私は67歳ですが

令和2年12月13日

昨日の自民党岐阜県連の講演に引き続いての懇談会の席の会話のなかで「会長さんはおいくつですか」と聞かれたので、「昭和28年生まれですので67歳です。」と答えると「そんな風には見えませんし、67歳で大きな施設を計画されているのは驚きですね。」と言われたので、私はその返答に困ってしまい苦笑いのような状態になってしまいました。私がその時思ったのは「60歳を越えての事業が駄目だとかと考えた事がないのです。事業を必要とされている方がいるからするのです。」と答えたかったのですが、流石にキザに聞こえてもいけないと思い止めました・・・。

私は26歳から38歳の13年間を児童養護施設の指導員として、理郎構築も何もしないで『その子にとって何をすべきか』を寄り添いながら考えて仮説的なプランを考え実践してきました。そのベースにしたのは『それぞれの子どもに鎧を身に着けさせる』と言うもので、先ずは高校全入を目指しました。そして、その実績を構築していく中で先輩から後輩に受け継がれて高校全入と共に短大、専門学校、大学等に進学していく流れも出来ました。そんな展開の中35歳の時に厚生省公認で資生堂財団の支援によりアメリカの児童福祉を学ぶ研修に参加させて頂き「アメリカでは福祉に対する評価が高く、一人ひとりの子どもに対してのケアが手厚い。アメリカの5年後が日本に来るのであれば、私自身が先駆けになる。」と考え、研修終了後無鉄砲にも児童施設を私の代わりの職員との引継ぎだ出来たら退職する決断をして、結局38歳で退職しました。

退職をして痛感したのはフリーランスの現実の厳しさでした。大学や専門学校での非常勤講師(多い時には週に13コマ)と家庭教師を収入源にして在宅で親子共々厳しい状況に置かれている相談を受けていたのですが我が家の預貯金で補う生活を強いられました。そんな中で『拠点が無ければ思うような展開は出来ない。』との当たり前すぎる事に気が付き、『情緒障害児短期治療施設』の計画に着手して、土地の提供者と共に業者に無理を言ってパーツまで作成してその当時の岐阜県児童家庭課に行って検討して頂いたのですが、結論的には「当面は高齢者福祉施設への予算を優先させる為に児童福祉施設はここ10年は建設する予定はない。」と言われ現実の厳しさを知りました。仮に10年後に完成したとしてそこからのスタートで理想に燃えて頑張れるのかと言う葛藤の毎日で悶々とした日々の中「若山さんの福祉への思いを高齢者施設で実践したらどうか。それだったら協力も出来るのだが」との話を頂き、その後大いに悩んだ末、ハード面の知識と高齢者施設にかける先駆者の思いを勉強する事にすると共に関ケ原町の高齢者の実態調査をその当時の民生委員児童委員協議会の協力を得て実施して、近い将来には特別養護老人ホーム等の受け皿が必要な事も理解しました。

そして、紆余曲折を経て完成したのが私が生まれ育った関ケ原町今須に平成10年5月から事業開始した本部本館施設(入居50床、ショートステイ20床デイサービスB型)で、私が44歳の時です。2年間の措置施設としての時代を経て平成12年4月から介護保険が導入され、特別養護老人ホームの需要が高まり、平成16年4月には新館としてユニット型特養40床の増床をさせて頂きました。この増床は地元の需要に応える形で計画したものです。そして平成26年4月に開設した優・悠・邑 和合(入居80床、ショートステイ18床)はその当時の大垣市の特別養護老人ホームの実態は平成15年以降に多く建設された事により、入居施設の75%、ショートステイに至っては80%が個室と言う状況だったので、多床室の必要性があるとの考えでの計画でした。そして、今回の盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の計画は「47都道府県の中で富山県、岐阜県、鳥取県、沖縄県の4県には盲養護老人ホームがなくて視覚障害者の方の不安を払拭したいとの強い思い入れの中での計画です。」

私は社会福祉法人の使命は地域のニーズに応えながらの展開こそ肝要との思いを常に持っています。次に私が考えている展開は『拠点作り』が出来て来た今、児童福祉の世界の中で自立出来ないでいる子どもたちと介護を中心にしている中での人材のマッチングが出来ないかと考えています。本部施設には中学を卒業して職につきもうすぐ3年が経過して頑張っている子もいるので、雇用に対しても貢献出来る法人を目指したいと考えています。リピーターの皆さん。こんな考えでいる理事長がいる法人ですが今後共見守っていて下さい。