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理事長コラム

忙中閑綴りと副題にありますように、忙しい時でも,わずかな暇はあるものです。福祉のこと、介護のこと、そして生きるということについて、理事長・若山宏が思うままに綴ります。 拙著をお読みいただきましたら、是非ご意見・ご感想をお寄せください。

コラム 一覧

思いがある奴は思いも通じる2020-04-07

令和2年4月7日

デイサービスの現場の責任者は言わずと知れた北島部長です。デイサービスの『桜を見る会』(誤解を招く表現だったかな。)は4月3日,4日と本日の7日の予定で起案されていたので、「不思議な組み方をしているな。」と思いつつ、北島部長からカラオケのオファーを受けていたのですが、3日も4日も残念ながら活躍出来なかったのですが、本日は今の段階でデイサービスの利用者さんが楽しくされている所に参加出来そうです。何故、5日と6日が飛んでの本日7日なのかはわかりませんが、本日は風も無く今の時期としては暖かい日和だったので、北島部長の思いを天気も味方してくれるのだとつくづく実感した次第です。私が、『上を向いて歩こう』『すきま風』『酒よ』を熱唱していると、不気味な二人が花見に乱入して・・・。どう見てもバカ殿に扮した北島部長を見て、模範的な化け方を12月のクリスマス会で披露して北島部長に『ぐーのねも言えんようにしてやるぞ』とわけの分からないライバル意識を持っている私はやっぱり変ですかね。花見の花を見ながらつくづく実感したのは、平成10年5月15日の本館竣工式を前にしてその当時の岐阜県庁から桜の苗木を取りにくればいくらでもわけてあげますとの連絡を頂き50㎝位の苗木を貰って来て植えたのが立派に咲いているのを見て正直感無量の気分にもなりました。(私の母親秋江さんの教えである『蒔かん種は生えない』を改めて理解しました。)伝統とは単に年数を重ねたから出来ると言うものでは無くて、『思い』を積み重ねていくものだと思います。そう言う意味で言うと北島部長が『デイサービスの利用者さんを喜ばせたい』と言う思いからの企画を評価すると共にこの思いを大切にしたいと思うと共に北島部長に続く職員をドンドン輩出していければと思っています。『思い』と言えば、平成10年5月18日に事業開始した当初は私の高齢者福祉に対する経験がない中で空回りして、白い封筒が乱れ飛び胃に穴が開くのではないかとの試練も経験させて頂きましたが、その後職員とのコミュニケーションをを取りながらの実践と、入居者さん利用者さんに色々な場面で教えて貰いながらの日々の中、地域のニーズに合わせた展開の中から平成16年4月に新館が事業開始して、西濃の中心で展開したいとの思いの中で平成26年4月に大垣市和合での事業開始が出来、今は岐阜県に盲養護老人ホームがないのを何とか解消したいとの思いで令和3年4月事業開始にの展開の為、日々活動出来る幸せを感じています。リピーターの皆さん、私は少々くらい、いやいやかなり大変な状況であっても突き進む事は厭いませんのでこのコラムでこれからもその事も含んで書き続けていきますのでこれからも宜しくお願い致します。

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本日、関ケ原中学の入学式です2020-04-06

令和2年4月6日

本部施設の吉田部長が関ケ原中学校の入学式でPTA会長として午後から挨拶に行くと言う事だったのですが、午前中に全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会の初めての試みで4月9日にテレビ会議を実施する為の試験的操作があるので、機械の操作をしに公休日だったにも関わらず来てくれたのですが、新型コロナウイルスの為の対応としての一貫とは言え大変な状況になっていると言わざるを得ないです。

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ところで、入学式と言えば、今須小学校のPTA会長を平成8年度と9年度にさせて頂いたのですが、PTA会長2年目の平成9年度の入学式でのPTA会長としての挨拶は朦朧とした状態で何とか挨拶をしたのを、吉田部長と話をしていて思い出したのでコラムとして書くことにします。

平成9年4月と言うのは関ケ原町に高齢者福祉施設建設計画の申請の最終段階で、その当時の補助金申請は、県の担当者が申請書類の作成の為の指導をして、その書類を県の担当者が持って厚労省の担当者の審査を受けるシステム(今は地方分権で岐阜県での審査のみ)だったので、その当時の県の担当者も厚労省での審査直前ではピリピリしていて、入学式の前日に心配な書類の添付資料をあれこれ作成して欲しいとの連絡を貰い、その資料が結構な量のもので、しかも翌日には欲しいとの事で、連絡を受けたのが午後4時で・・・。夜を徹して資料が完成したのは午前9時30分。慌てて家に帰り、朝食と着替えを済ませて県庁に行き、資料の確認をして貰い、急ぎ県庁を出たのが11時30分。12時30分には学校へ行かなければいけないのに結局学校に着いたのは12時45分でした。

校長室に入って行くと校長先生が「遅いので心配してましたが会長さんのお顔を見たので安心しました。誠に申し訳ありませんが早速入学式会場に移動して貰えますか。」と言われ体育館に歩いていきながら、「バタバタしていて会長の挨拶は何も考えてないし、徹夜だったので頭がぼーっとしていて何も浮かんでこない。」と思っていました。何人かの挨拶があり、会長である私の出番になり、頭は朦朧としながらも何とかしっかりとした挨拶が出来たなとほっとしながら壇上を降りたのを思い出しています。

今コラムを打ちながら、私の生き方はいつも綱渡り。でもこんな生き方でかれこれ半世紀(高校生時代から)。先程も全国老人福祉施設協議会の平石会長との電話でのやり取りにしても、自分にプレッシャーを掛けながら『有言実行』あるのみの生き方しか出来ない私を心配して貰っている次第です。でも、良い事もありますよ。だって4月9日には13時30分から3時間のテレビ会議を体験出来るのですから。これもワクワクですよ。66歳になっても(来月には67歳)わくわく感を持った生き方が出来る事に感謝。

 

ハチャメチャだった高校2年生時代でしたが生徒会活動には頑張ってました2020-04-05

令和2年4月5日

私が高校2年の新学期の日(4月7日)が姉光子が急逝した日で、もやもやの日々の中でやんちゃをしては父進に迷惑ばかりかけていた私を、その当時担任だった西田先生が多分『エネルギーが有り余っているから何かに熱中させないと危なっかしい』と考えられていた時期に、生徒会選挙の応募があったのです。その当時は『三無主義』だとか『シラケ時代』とか言われている時代で定員に至らない状況があった事もあり、西田先生がクラスの同級生を誘導する形で副会長に立候補することになりました。そして、見事無投票当選を果たしたのです。しかしながら、実際に役員の一員になると元役員の3年生の先輩の中には結構熱くうるさいことを言ってくる方がいて、その当時の私は結構激論していたように思います。

但し、後期の改選期前になって、一年生から生徒会批判をする輩が出てきて自ら会長に立候補する生意気な女子が現れたのです。しかしながら私的には「批判は誰でも出来るが実際に形に出来ると思うならばやったら良い。私は出ない。」と考えていました。ところが、その動きを知った同級生のスポーツクラブ所属の女子が中心になって決起して(これも西田先生が影で糸を引いていたのかも知れませんが確証はありません。)私を会長立候補者に祭り上げたのです。その頃のスポーツ系の女子は元気な子ばかりで、足のこぶしの所まであるズルズルのスカートをはいて学校内を闊歩している子ばかりだったのですが、私は自らは出ないと考えていたので全く選挙活動をする意志がなかったのですが、一年生の候補者が必死な運動を繰り広げているのを見て、例えば相手候補者が登校する生徒達に玄関先で呼び掛けているのを見て、翌日にはズルズルスカートの賑やかな(いやいや不気味な)メンバーが玄関先を占拠して選挙活動をしているのです。

私が登校してくると「若山君。タスキをして立って立って。」と言われてしぶしぶタスキを掛けると彼女達はますますヒートアップして・・・。いつもは基本的に近寄る事のない存在の女子軍団が可愛く(いやいや不気味かな)「若山君を宜しくお願いしま~す。」と言われるのはかえって逆効果でないのかと思いつつも、「こんなに一生懸命になってくれているけど相手は本気だし勝てないよ。」と思っていました。しかしながら、その時の選挙では、私以外の女子軍団を中心としたこちら側の勢いは凄まじくて、立ち会い演説会で私が演壇に上がって話をしようとしたら、ズルズルスカート軍団がずらっと後ろに立っていて私が話をする度に「お願いしま~~~す。」を連呼して、流石にスポーツ系は縦社会です。上級生にも下級生にも根回しがしてあったんだと思います。

私は開票の場所にも行かずにいたのですが、開票結果は圧倒的に私の票が多かったと女子軍団のリーダー(と言うよりボスかな)が興奮気味に知らせに来てくれました。せっかく会長になったんだから今まで出来なかったような生徒会活動をしようと考えた私には強い味方がついたのです。と言うのは、今までだったら生徒会活動にあまり協力的でなかったスポーツクラブのメンバーややんちゃな生徒達がこちら側についたのです。だから、私が会長の時の卒業生を送る為のイベントは例年になく参加者が多くて準備も盛り上がりました。いつもは学校生活も一生懸命でない子達がバンドを組んで練習に打ち込む姿は感動もんでした。

当日を迎え『いつもと同じでくだらないイベントだろう』と思っている送られる側の3年生が開会の挨拶を教頭先生がされていてもザワザワしていてうるさい中、私が会長挨拶をする段階でもうるさくて、私は一生懸命に準備してくれたメンバーに申し訳ないとの思いで一杯になり、「やかましい。後輩が一生懸命に準備したのを静かに見たらんかい。」と思わず叫んでいました。その後は先輩達も『いつもとは違う』と感じて貰えたのか一番最初のバンド演奏が良かった為か成功裏に終わり、参加してくれたメンバーと共に喜んだものです。(当然の事ですが祝杯はやりました。)

しかしながら職員の中には私の行動を善しとしない方がおみえになったのだと思います。(多分、私の前に挨拶をした教頭先生一派)例年だと卒業式の送辞は生徒会長がするのですが、「若山だと、卒業式でも何を言い出すかわからない。」と言う事で代わりがたてられ送辞の挨拶は出来なかった次第です。リピーターの皆さん私の生き方をどう思われますか・・・。

新型コロナウイルスの報道ばかりの中でかつての自分を振り返る時間がコラムを通じて出来たのは有り難いことだと思います。勿論、絶対に許してはいけないことは新型コロナウイルスを施設に持ち込まないことが必須なのでこれからも職員が一丸になり阻止する事は勿論ですが、家族、地域、ボランティアの方々の理解も得て終息まで頑張りたいと考えています。改めてリピーターの皆さんも手洗い、うがいと消毒をしっかりしていきましょう。

 

卓球のラケット購入事件2020-04-04

私が中学一年生で当時、卓球部に入部して間も無くの事です。入部したての頃はラケットを買って貰えず(記憶は定かでないのですが)家族の誰かが譲り受けた物を使う事になったのですが、そのラケットは手を握るところがみんなが持っているものより高くないもので、スタートラインで恥ずかしい思いをしていたのですが、そのことをはっきりと家族に対して言えるような子ではなかったのです。

そんな時に同級生の子が「新しいラケットを買って貰ったので今まで使っていたのを譲ってもいいよ」と言う事になりその程度のお小遣いを持っていた私は譲って貰おうと学校へお金を持って行った日が先輩達の試合がある日で、同級生の何人かが試合を見に行く話がまとまっていることを私は知らなくて、その時の私は「ラケットはいずれ買ってもらうとして試合を見に行きたい。」と。たまたまラケットを買うお金を持っていたので友達と共に試合を見に行ってしまったのです。

ところが、試合終了が意外に遅くて、関ヶ原駅からのバスがなくて仕方なく怒られる事を覚悟しつつ電話をしたら、母秋江がその当時車を持っていた方に頼み込み迎えに来て貰ったのですが、そのおばさん(今も健在です)が車の中で「おかあちゃんがとても心配していたので、家に帰ったらちゃんと謝らなあかんよ」と言われて、(その当時の母秋江は、癌が肺から骨への移行期で家にいたのです。)家に帰ると心配していた母秋江さんが「どうして黙って出掛けた。」「お金はどうして持っていた」等と・・・。

私が「今のより使いやすいラケットが欲しかったので友達に譲って貰おうとお金を持っていった。」等と話すると父進さんが「黙って言ったので心配した。」「ラケットが欲しかったのなら話をして頼まないかん。」と言われて、母秋江は心配していたのがほっとしてカッカとしていて「ちゃんと話が出来ん子はご飯食べんでもいい。」と言われました。

私が悲しくて悲しくて涙が止まらなくて何ともならない時に、両親が混乱しながら収集がつかない状況にいる時に、私が高校2年生の4月7日に急逝した母親替わりだった姉光子さんが毅然とした言葉で「宏はちゃんと謝ったんやし、ご飯食べたらあかんと言う理由にはならんのだから、ご飯を食べたらあかんと言うのはおかしい。宏はもう泣かんとご飯食べなさい。お腹空いたやろ。」と言われて、家族みんなが落ち着いた状況になった事を66歳の今だから理解出来たように思います。

何故、今日突然にラケットの話になったかと言うと、ラケットの話には全く出てこないもう一人の姉春子さんが姉光子の命日のお墓参りをどうするかと聞いてきて、ふと頭に浮かんだからです。そう言えばあの頃の姉春子さんは膨れ顔ばかりで若山家での存在感は薄かったな。(こんな事を書くとまたまた春子さんに叱られそうですが、今の春子さんは『にこにこ春子さん』だから笑って許してくれるはず)

怒られた次の休みの日に父進さんに大垣のスポーツ店に連れて行って貰いラケットを買って貰って『めでたし、めでたし』の話でした。

リピーターの皆さん。私は愛情一杯に育てて貰った幸福者です。母秋江、父進、姉光子には恩返しが出来ない分を地域で恩返しをしていきますのでこれからも温かくこのコラムを見て頂ければ幸いです。

昨日チラッと登場して貰った祝(はふり)先生について書きます。2020-04-03

令和2年4月3日

大学時代5年間(「えっ大学は4年じゃないの。」私は勉強が好きだったから5年何です。この答弁は間違っています。正しくは、勉強が好きだったのでは無くて大学が好きだったのだと言う事で・・・。)を通して所属していたサークル活動は郷土研究の会で顧問の先生が祝(はふり)先生だったのです。祝先生は折口信夫(おりぐちしのぶ)先生の直弟子で文化庁を退職された後、名城大学法学部に天下った方だと聞いています。

また祝先生は文化庁に勤務されている時にイギリスのロンドンに長く留学されていた本場仕込みの『イギリス紳士』の方です。私が一年生に入学して郷土研究の会に入部した時にはまだサークル活動としての承認が得られていない状態でクラブボックスが与えられていなくて、(私が2年生の時にその当時の学術局の代表者に私がなるのを条件に学術局に所属でき、同時にクラブボックスを獲得しました。)サークル活動の拠点は祝先生に相鍵を作って頂き先生の研究室に間借りしていて、先生が講義を終えて部屋に戻られると必ず鏡のある洗面台で髪を整えられるのを感心して見ていたものです。

祝先生はとても温厚な方で物静かな方でしたが、時代が学生運動の盛んな時代で私が教授会で名前が挙がった時にはいつもは発言される事が少ない祝先生が私の弁護をして下さり危うく退学になるのを救って下さった事もありました。その時の発言内容を聞いてやはり信念のあるかただと思いました、その発言とは「若山君は組織の考えの中で活動されたのだから、もし若山君を退学にするのであれば、集会に参加した学生を全員退学にしなさい。」で、私は大学生活を続ける事が出来ました。

サークル活動の一環として最初に手掛けたのは長野県妻籠を一大観光地にする為に大学の建築学科と共にプロジェクトを組み調査を進めて行く時も、ダムで沈む前の岐阜県揖斐郡徳山村(当時)の調査の時も祝先生が先頭指揮を取って下さり多くの事を学びました。大学を何とか卒業して教員を経て児童養護施設の指導員になった頃に祝先生の奥さんから突然手紙を頂きました。その内容に「主人が癌に侵され顔色も悪く『サルノコシカケ』を煎じて飲ませたいが自宅のある藤沢ではあまり良い品物が手に入らない。若山さんの所は山深いところだと聞いているので、もし手に入るのであればわけて欲しい。」との趣旨のものでした。

私はその手紙を読み終えて直ぐに私の父進が、我が家の玄関先にある(今もありますが)古木の紅梅の木に出来ていた立派なサルノコシカケを籠に入れて乾燥させてあるのを知っていたので、勤務先の施設に事情を話して藤沢市のご自宅まで届ける事にしました。藤沢駅に着きご自宅に連絡をして道順を聞き何とかご自宅に着くと奥様が玄関先で出迎えて下さり、「しばらくお待ちください。」と言われて奥に行かれおおよそ15分後に奥様が出てみえた時に私は感動しました。と言うのは奥様の横にスーツにネクタイをして右手でステッキを持った先生が「体調が悪いので立ったままで失礼します。遠いところをわざわざありがとう。」と言われて、「せっかく来てもらったがこれで失礼します。」と言って奥に行かれるのを見届けながら、私は「15分もかかったのは身支度を整える為だったんだ。

最後までイギリス紳士だと感動して、私もこうありたい。」と思いました。その後3か月位してから再び奥様から手紙を頂きました。『若山さんに届けて頂いたサルノコシカケを毎日煎じて飲んで頂いたお陰か茶色かった爪の色がピンク色になり嬉しく思うと共に行動力のある若山さんに感謝しております。』との内容に涙が溢れたのを覚えています。私は祝先生の様に『イギリス紳士』のような振る舞いは出来ませんが(スーツのズボンにサスペンダーをするくらいかなー。)祝先生の様に信念を持った生き方をこれからもしていきたいと思っていますので、リピーターの皆さん、そんな私の生き様も見守って頂ければ嬉しいのですが。

関ケ原駅は凄い歴史がある事を改めて知りました2020-04-02

令和2年4月2日

施設で資料の整理をしていて、随分前にコラムでも登場させた『ふわのあゆみ』を見つけ改めて関ケ原駅の凄さを知りました。(父進が不破郡郷土誌編集委員長で昭和43年5月30日改定版※初版発行は昭和36年11月3日で父進は編集常任委員)関ケ原駅についてインターネットで検索すると大垣駅よりも早く長浜~関ケ原を1883年5月1日に列車が走った記録を見つけました。(※日本で一番最初に走ったのは1872年に新橋~横浜)そして『ふわのあゆみ』に掲載されている記事を見て驚くような内容があったので紹介する事にします。

関ケ原~長浜に列車が走った翌年1884年5月には大垣~関ケ原を1日3往復走ったとの事です。その当時の汽車賃は垂井~関ケ原が中等10銭、下等5銭で垂井~大垣が中等15銭、下等8銭で、上りは関ケ原発が午前6時53分、午後3時37分。午後7時13分で下りが午前7時40分、午後0時30分、午後8時とのことです。そして、もう一つ驚くのはその5年後には大垣~垂井~関ケ原~玉(現在は存在しません)~近江長岡を経て京都まで行ける東海道本線が全線開通したと言うことです。その後の記録を読んで唖然としました。それは、玉へ行く路線は坂が多いとの理由で今須トンネルを作って今の路線になったとの事で、今須に路線が変更になった時に『今須駅』構想もあったようなのですが、その当時の今須の有力者の方が「駅が出来ると若い者が出て行ってしまうので駅はいらない。」と言う事で断ってしまったと言う話を聞いた事があります。ちなみに今須に駅があったら私は今ごろ駅前で饅頭売りを生業にしていたかも・・・。いやいや、みたらし団子かな。

その他に興味深いものを見つけました。それは、関ケ原駅での年間別乗降客数の推移です。明治20年は25,179人、明治40年は63,237人、大正11年は185,790人、昭和10年は330,399人、昭和30年は1,421,675人、昭和41年は1,002,936人との事でした。この数字から私の憶測でものを言うのなら、明治20年は25,179人と言う事は、1日の乗降者の平均は69人となり、列車に乗るのは貴重な乗り物だった事が分かります。また、昭和30年がピークの数字になっているのは自家用車の普及が進んだからだと思うのです。

昭和30年の数字を改めて確認すると1,421,675人です。この数字を365で割ると(1日の平均乗車数)3,895人です。現在関ケ原駅に停まる列車は36本(昭和30年にそれだけの本数があったかはわかりませんが)で割ると、平均で108人の乗降者があった事になります。私は滅多に東海道本線の関ケ原駅で降りることはありませんが、昨年岐阜で飲み会があり、午後11時頃に関ケ原駅を降りたのは私一人でした。。今、関ケ原駅の事を書きながら大学時代にサークル活動の一つとして、郷土研究の会(柳田民俗学)の顧問の祝(はふり)先生の教えを思い出しました。「若山君。民俗学の研究を決して難しく考えてはいけませんよ。例えば、同じ位置から1年に一回写真を撮り続けてそれを例えば30年続けて比較してみるだけでも立派な研究何ですよ。」と言われたのです。と言う事は、何事もビックデーターが大切だと言う事。リピーターの皆さん、またまた焦点が惚けた原稿になってしまいましたが主旨はご理解頂けたら嬉しいです。

 

令和2年度社会福祉法人杉和会辞令交付式に開催に思う2020-04-01

令和2年4月1日

介護人材の枯渇した状況が続く中、5人の新規採用者を迎えられた事は大変ありがたく、5人の新規採用者が生き生きと、それぞれに活躍してくれる事を願っています。その為には色々な配慮が必要だと言うことも分かっています。新型コロナウイルスの影響があり、ベトナムからの留学生3人とインドネシアからのインターンシップの学生⒉人が未だ日本に来れなかったのは非常に残念ですが、新型コロナウイルスの終息により、何れは杉和会の仲間になってくれるものと思っています。さて、辞令式は優・悠・邑 和合の佐藤施設長の開会挨拶に続き理事長である私から、新規採用者5人(本部施設4人と和合施設1人)それぞれに辞令を手渡し、

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引き続き1年前に人事交流した職員に対して元の施設に復帰するための辞令を渡してから理事長としての訓示を述べさせて貰いました。

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私の話の後、新人職員の代表の挨拶があったのですが、代表で話をした職員は「昨日まで町の職員だったのですが、理事長の理念と施設の実績を理解して杉和会の一員になった。」との話をしてくれたので、若干プレッシャーを感じながらも嬉しくもありました。次に、異動した職員代表の話があり、その中では、新たに頑張ろうとの気持ちが表れた内容だったので、配置換えが上手くいったとほっとした次第です。その後、先輩職員を代表して昨年新規採用した職員が話をしたのですが、一年の経験で随分成長したなと嬉しくなりました。経験年数が3年未満の退職者が多い業界の中で、当法人の退職者は殆どないのは、改めて有難い事だと思っています。最後に本部施設の副施設長が閉会の挨拶をした後、和やかにいやいや緊張気味にではありましたが記念写真を全員で撮り、辞令交付式を終えて本部施設職員の新人職員4人を会議室に残って貰い、約1時間に渡って理事長である私が、福祉の思いを私の生き様と共に話をさせて貰うと共に入居者、利用者の笑顔を引き出すためにも早くに名前と顔を一致させコミュニケーションを円滑にすると共にケアの充実をする為には相手を知る為の努力が必要だと熱く語ると共に地域の方々と共に歩む事が大切だとも語りました。

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語りながら、つくづく実感したのは、22年の実績の重さでした。と言うのも私は児童養護施設の指導員としては自分で言うのも恥ずかしいもですが、はっきり言って日本一のカリスマ指導員だったと自負しています。しかしながら、がむしゃらに特別養護老人ホームの建設が出来、平成10年5月18日に開所した時には高齢者のソフト面の知識は全く無くて、経験のある職員を頼りにしながらも福祉の思いを語るしか出来なかった私に対して、時には命を賭して教えて頂いたり、しんどい思いをして教えて貰ったから今があると言っても過言ではありません。そして私が絶対に忘れていけないのは、中1で他界した母秋江さんと、高2で他界した母親代わりだった姉光子さんと、38歳で他界した父進さんが私に対して注いでくれた愛であり思いやりです。『孝行したい時には親はなし』の状態ですが、利用者さん、入居者さんに対して一生懸命が恩返しと思って頑張りますのでリピーターの皆さん、これからも変わらぬ応援を宜しくお願い致します。

 

新館の思いの中で各ユニットに立派な書を書いて頂いた静慈圓師の事2020-03-31

令和2年3月31日

新館が完成したのが平成16年4月ですから、既に15年以上前の事なのですが、各ユニットの名称の『喜』『笑』『天』『結』に合わせた梵字を書いて頂くように滋賀信行会(本部は長浜市)の内藤会長にお願いに行って貰ったところ、立派に書いて頂いたのですが、内藤会長のこだわりで台紙を京都の紙屋さんに行って購入して貰う時に『赤色』『クリーム色』『オレンジ色』『うぐいす色』を指定したところ、お店の方が「どなたに書いて貰うのですか。」と聞かれたので「高野山の静慈圓先生です。」と答えられたら、「そんな色の紙には絶対に絶対に書いて貰えませんよ」と言われたのに対して内藤会長は「静先生なら書いて頂けますよ」と涼しい顔で答えたとこれまた涼しい顔で私に話をしてくれたのを15年前に聞いたものです。

立派に書いて頂いた年の8月20日に施設に来て頂き、書いて頂いた書が各ユニットに飾ってあるのを見て頂き、本館1階の畳の間(デイサービスの静養室)に設置してある1間半のスペースに収まっているステンドガラスの入った三方開きの仏壇で(リピータの皆さんも一度見に来て下さい。)静先生を導師にして般若心経をあげて頂きました。その後、関ケ原駅前の料亭『末廣』に場所を移し交流を図ったのですが、静先生の話題は豊富で、空海が遣唐使で中国に渡られた時に船が難破して当時の長安の都まで2400キロの足取りを20年かかりで調査された時の調査団長をされて、中国から渡ってきたはずの真言宗のお寺は根絶やしされていて全くなくなっていたので、中国での再興に尽力をされ、中国に『空海ロード』を作られると共に『空海学会』までが出来て、静先生は中国では最高の評価を受けられているとのお話を聞きました。

その時は1回だけのご縁かと思っていたのですが、静先生の方から「若山さんは実に思いのある施設運営をされている事、本当に素晴らしいです。来年も立派に運営されている姿が見られたら嬉しいのですが。」と言われたので「こちらこそ宜しくお願いします」と言う事で毎年8月20日と決めて来て頂いてます。(※一昨年だけは来て頂けませんでした。その理由は静先生が『法印』※としての役割を1年勤められたので、高野山から降りられる事が出来なかったからです。)今は、『前官』※※となられ昨年の8月20日にも来て頂きました。

この15年の間には私も忘れられない出来事がありました。それは、静先生の書が西暦3世紀頃の書家で中国2000年の歴史の中でナンバーワンの書家と評されている『王羲之』の墓誌の隣に静先生の記念碑が建立されると言う事で私も随行させて頂きその時は改めて静先生の凄さを感じさせて頂き、私もビップな歓迎を受けました。※『法印』とは、岩波書店によれば・・・(法印大和尚位の略)最高の僧。※※『前官』とは、岩波書店によれば・・・功労顕著な者に対し、その退官後も在官当時の待遇与えられる。

静先生が1年の内1日のみとは言え優・悠・邑にきて下さる事は凄い事だと理解しているので、毎回、静先生の素晴らしさを理解して頂ける方をご招待させて頂き私のネットワークをより強固なものにしてます。ちなみに、遠い方では北は栃木県からで、南は鹿児島県です。静先生とのご縁はこれからも大切にしていきたいと考えています。

 

昨日、誕生会が終了後しみじみと家族会会長の吉田さんと話をしました2020-03-30

家族会会長の吉田さんは私が孤軍奮闘で、私が生まれ育った今須の地で高齢者福祉施設の建設計画をしているのを聞きつけて、施設の建設が岐阜県の計画にも挙がっていない段階から協力を申し出て下さり、色々と相談に乗って下さったり、具体的に進んできた時には吉田さん所有の倉庫を事務所として提供して下さったりして頂きました。

また、平成8年度での計画が白紙撤回され暗礁に乗り上げて、その当時の大垣商工会議所の河合会頭の計らいによって岐阜県庁議会棟での話し合いにも同席して下さり、関ケ原町に於いての必要性について熱弁を奮って頂いた方です。

岐阜県庁に行った時の話で盛り上がり「あれは、平成8年8月だったから24年前なので私が42歳で吉田さんが47歳の時ですね。」と投げかけると吉田さんが「お互いに若かったな。でもあの時は必死に食らいついて良い結果になり今があるんやな。」と言って頂いた時にはお互いに熱いものがこみ上げてきました。

一言で『22年が経過した。』と言っても、過ぎ去った経過の中でどこを取っても印象深いものがあります。本館の竣工式が行われた平成10年5月15日には、式典が無事に終了してから、吉田さんと共に手を握りあって喜んだのを昨日の事のように思い出しますし、土地の提供をして頂く話の最終段階の話を取りまとめて下さったのも吉田さんでした。

竣工式が終わり3日後に事業開始(5月18日)する段階になって、実際に居室のベットに寝てみました。そして私自身が真っ青になったことがありました。と言うのは、多床室の間仕切りを木で感じ良くして頂いたのですが、寝た位置からは隣が丸見えだったのです。そこで、建築施工業者を経営されている吉田さんに相談すると、「何とかする。」と言って翌日には材料を手配して下さり見栄えも良い形で目隠しをして下さり「立派に完成したご祝儀だからお金はいらん。」と言って頂いたのは本当にありがたかったです。

吉田さんの家には色々な相談もさせて頂く事があり、吉田さんのご自宅へも何度となく行かせて頂いているのですが、その当時お茶を持ってきて頂いたりしていたお母さんのお世話を今は当施設でさせて頂いていて、家族会の会長をお願いしたら気持ちよくお引き受けして貰って、月1階開催している家族会主催の誕生会には必ずきて頂きプレゼントをその月の誕生日の方に渡して貰っていますし、毎年8月に開催している夏祭りでは、かき氷の販売をして頂いています。吉田さんはこよなく関ケ原町を愛されているので、関ケ原町敬老会の会長さんもされているのですが、3つ年上の今須の先輩として誇りに思っていますし、今後も親しくお付き合いして頂けるようにしっかり施設での運営をしていきたいと思います。

リピーターの皆さんも吉田さんのように下支えして下さる方がおみえになるから施設が盤石になっていく事をご理解していただければ嬉しいです。

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